友人Sから返答…… |
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以前から親しくさせていただいている友人のS氏から、掲示板に書き込みをされたよしさんに対しての返答が寄せられました。当人曰く、じっくり考えたかったので返答が遅れたとのこと。その分、量がかなり多くなっているようですね。 | ||||||||||||||||||||||||
はじめに | ||||||||||||||||||||||||
友人Sである。不定期ながらも、自分の意見を言わせてくれる場所を与えてくれた憲法学入門の管理人さんに感謝している。
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そこで私は、よしさんの主張について再び考えてみることにした。よしさんの書き込みを何度も読み直して考察した結果、私とよしさんが持っている竹林に対する認識の前提が「全く異なる」という結論に至った。よしさんの質問に答える前に、まずこの点を明らかにする必要があるだろう。 | ||||||||||||||||||||||||
(1)私とよしさんとの認識の違いは何か | ||||||||||||||||||||||||
私とよしさんとの認識の違いを、下図に示す。 | ||||||||||||||||||||||||
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さらに、この考え方の根底にある「ネット告発とは何か」に対する根本的な見解の違いが浮き彫りにされた。 | ||||||||||||||||||||||||
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よしさんは、『「作者は自分であるが、著作権も金もいらない」という考え方もアリ』という立場に立っているため、私が導き出した「作者が自分であると主張するのであれば、その損害費用を計算してその費用を払えと訴えるのが筋」とする主張が「主観的で弱い」と結論づけている。 この前提の相違が、よしさんと私の意見の決定的な違いであることは覚えておいてもらいたい。そして、よしさんは私に対して以下の3つ事柄を問うてきたのである。 (a)「数多くのヒット曲の作者が竹林であることを知って欲しい」という主旨だけでは、主張が不十分なのですか。 (b)本来、作者が自分であると主張するのであれば、その損害費用を計算してその費用を払えと訴えるのが筋 だといえるのですか。 (c)「竹林を作者として認め、作品にクレジットすること。」のみを訴えたとしても、なにも不都合はないと思うのですが。 以下、それぞれを見ていくことにする。 |
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(2)よしさんの質問に対する回答 | ||||||||||||||||||||||||
(a)「数多くのヒット曲の作者が竹林であることを知って欲しい」という主旨だけでは、主張が不十分なのですか。 | ||||||||||||||||||||||||
不十分である。これは(c)とリンクしているので、切り離して論じることはできないだろう。まず指摘しなくてはならないのは、よしさんの(a)と(c)の二つの質問において文章に矛盾が生じていることである。何度も繰り返すが、竹林が作者であることを認めさせるには、著作者人格権の法的な回復が不可欠(=現在の著作権所有者に裁判を起こして勝訴すること)であり、「裁判に勝たなければ作品にクレジットされることはあり得ない」のだ。なぜなら、著作権は法的に保護された権利だからである。厳密に言うならば、「数多くのヒット曲の作者が竹林であることを知って欲しい」という主旨と、「作品にクレジットすること」を訴えることは区別されなければならない。両者はイコールで結ばれてはいない。世論のバックアップがあろうとなかろうと、結局は法的に竹林が著作権者であることが認められないと作品にクレジットされることはあり得ない。従って、よしさんの「S氏の言われていることは、バックアップを得るために必要な条件であり、バックアップを得たいという気持ちは、それとは無関係です。実際、竹林某は、証拠らしき証拠を持たずに、ただ、バックアップを欲しているがため、未だ大したバックアップを得られずにいます」という主張は全く意味を持たない。 | ||||||||||||||||||||||||
(b)本来、作者が自分であると主張するのであれば、その損害費用を計算してその費用を払えと訴えるのが筋 だといえるのですか。 | ||||||||||||||||||||||||
その通りである。これは(a)でも述べたことであるが、「裁判に勝たなければ作品にクレジットされることはあり得ない」ため、その証拠として損害費用を計算する必要があるということを述べたのである。もう一度、前回から引用するのでよく読んでほしい。 「著作権が侵害されたというためには、著作物が告示しているか、あるいは同一だということのほかに、その類似品が、他人の著作物をまねて作られたという証明が必要」(荒竹純一『インターネットと著作権』中央経済社、1997、P.174)である。 竹林が権利者であり、侵害者の故意または過失によって「著作者人格権」や「著作権」、そして「著作隣接権」が侵害されたと仮定するならば、民法に基づいて権利者は侵害者に対して損害賠償を請求することができる。しかしながら、訴訟の中では「権利者の受けた損害の額を証明しなければならない」(荒竹純一『インターネットと著作権』中央経済社、1997、P.180)のである。 |
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(c)「竹林を作者として認め、作品にクレジットすること。」のみを訴えたとしても、なにも不都合はないと思うのですが。 | ||||||||||||||||||||||||
この質問は、既に(a)で指摘した通りである。よしさんは、著作権をどのように捉えているのであろうか。下で述べるように、企業や団体が提供する財やサービスの類と混同しているような気がしてならない。財やサービスの類であれば、世論の声が高まれば企業や団体は謝罪せざるを得ないだろう。しかし、竹林の告発はそのような告発サイトとは性格を異にしていることを認識しなければならない。 私はよしさんに聞きたい。なぜ竹林が作者が自分であることを主張するのに、他人の掲示板を荒らすような行為を行ったり、mpをアップしたりしているのかを。これは竹林が作者が自分であることを主張することとは無関係である。そして、一般的な告発サイトでは財・サービスに対する不満を掲載することによって、同じような目にあった人々の共感を誘ったり、ホームページに証拠が提示されていることによって、それが世論となって動くことが特徴である。しかし私は、竹林の場合には世論の共感は得にくいと考えている。なぜなら、団体が提供する財やサービスに対して不満を持っている人の数と、自分が作った曲を盗まれたという人の数の割合が、どちらが多いかを考えれば一目瞭然である。「自分も同じのような目にあった」という共感は、竹林のサイトでは得られないのが実状であろう。つまり、作曲をする人という段階でその数はかなり制限され、更にその曲が盗作として使われた、というところまで行くとその数の減少は数字を挙げるまでもなく明らかであろう。このような意味でも、よしさんが考えている「世論のバックアップ」は他の告発サイトと違い、有力な証拠を提示して人々を納得させない限り難しいと言わざるを得ない。 |
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(3)竹林の告発サイトに対する認識の違い | ||||||||||||||||||||||||
掲示板への書き込みを何度も読み直すにつけ考えたのは、どうやらよしさんは竹林と他の告発サイトとを「同一視」しているのではないか、ということである。告発サイトは、一個人が東芝やトヨタなどの企業や学校という団体が提供する財・サービスに対して告発を行うものを主としている。しかし、竹林が他の告発サイトと違うのは、
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おわりに | ||||||||||||||||||||||||
基本的な立脚点が全く違う以上、私はよしさんと理解し合えるとは毛頭考えてはない。接点も見つけることは不可能であろう。しかし、私には私の理論の正当性をここで主張しなければならないと考えて、このように書かせてもらった。 立脚点も主張も全く違うのであれば、これ以上の議論は「時間の無駄」である。ただ、この相違点が明確になったことだけでも、有意義であったかもしれぬが。 mp3が再びアップされた以上、一日も早く「著作権の侵害」で竹林が逮捕されることを望むだけである。 以上 |
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