谷村新司研究「雪の音」編

Written by 憲法学入門の管理人

1 チンペイさんが手に取った歌集とは?

 <昴>の歌詞が啄木の影響のもとで生まれたことは既に述べました。啄木を使うとは、チンペイさんの教養の深さに驚かされますが、実は、他にも啄木の影響を受けた歌があります。そしてその歌は、チンペイさんがどの会社の啄木歌集を手に取ったかまでも推測させてくれるのです。

 その歌とは、<雪の音>です。『アリス5』所収のこの曲は、故郷を遠く離れた場所にいる主人公が昔の恋人を思い出すという内容の詩で、これに日本風の楽曲と編曲が調和した名曲と考えられている曲です。なんと、この<雪の音>の歌詞から、チンペイさんが手に取った歌集が推測できるのです。

 <雪の音>はその冒頭で、

胸痛み 眠られず
ふるさとは 遙か遠く
乱れて落ちる春の雪さえ
心にうれしく静かに目を閉じる

と歌っています。この部分の詩は、啄木『悲しき玩具』所収の

胸痛み
春の霙の降る日なり
薬に噎せて、伏して目を閉づ

春の雪みだれて降るを
熱のある目に
かなしくも眺め入りたる

を組み合わせ、これに独自のストーリーをミックスしたものと考えられます。
 そして、

ひとしきり ため息を
手にとりし 古本の
破れ表紙に黒いインクで
綴るは意味さえわからない言葉

の部分は、

寝つつ読む本の重さに
つかれたる
手を休めては、物を思えり

何か、かう、書いてみたくなりて、
ペンを取りぬ ―
花活の花新しき朝

を組み合わせて独自のストーリーをミックスしたものと考えられます。この部分については「全然違うじゃないか」とのご意見もおありでしょうが、2番で「寝返り」という言葉が出てくることから、「寝つつ読む……」の短歌を挙げることには根拠があると考えます。
 さて、このように、<雪の音>はいくつかの短歌をモチーフにして作られていることが分かりました。では本題です。チンペイさんは、どの会社の歌集を手に取ったのでしょうか。私は次のような仮説をたててみました。

1 いくらチンペイさんが教養深い人物であったとしても、啄木の全ての短歌を暗記しているということはない。
2 すると、本を読んだうえでこれを傍らに置いて作詞したのではないか。
3 だとすると、これらの短歌が参照しやすいような編集がなされている歌集を読んでいた可能性が高いのではないか。

 3の「参照しやすいような編集」とはどんな編集か。私はいくつか啄木歌集を見たり買ったりしてみました。岩波や新潮文庫版などを見てみましたが、決定的なものは得られませんでした。ところが、ある歌集を手に取ったとき、「これだ!!」と思ったのです。それは、

白凰社刊『石川啄木詩歌集』

です。この本を手にとって中をのぞいたとき、確信しました。
 なぜなら、この歌集は二段組で編集されていたからです。そして、「胸痛み……」と「春の雪……」は同じページに掲載されていたからです!!
 二段組であれば鳥瞰性に優れますから傍らに置いての作詞の際に便利ですから、短歌を「参照しやすい編集」といえます。そして、「胸痛み……」と「春の雪……」が同じページに掲載されているとなると、もうこれ以外考えられません。さらに、表紙も白地に金の模様の美しいデザインであり、チンペイさん好みではないか、とも思いました。これしかない!!

 そこで私は次のように結論します。

結論:チンペイさんが手に取った歌集は、白凰社刊『石川啄木詩歌集』である。

 多少強引ですが(^-^;、このように考えると、啄木を読む楽しみも増します。最近はこの本を読みながら「これがチンペイさんの手に取った本なんだ」とか「実はチンペイさんは私達に啄木を読むことを勧めていたのではないだろうか」などと、しみじみとした感動を味わっている私です。

(参考)
 ちなみに、(古典ともいうべき)短歌や詩をモチーフに作詞を行う手法は、井上陽水<ワカンナイ>(宮沢賢治「アメニモマケズ」をモチーフにしている)でも採用されていますし、古くは和歌における「本歌取り」もありますから、何らやましいものではないと考えます。


2 <雪の音>の新解釈

 啄木歌集を読み進めていくと、私自身の<雪の音>の解釈が変わっていくことに気付きました。以下では、私の<雪の音>の新解釈を述べたいと思います。

それは、「胸痛み 眠られず」とか「いたむ胸 押さえつつ 寝返りを 打って見る」の部分について、これまでの私は、「胸が痛いのは、心に傷を負っているから」と決めつけていました。そして、<雪の音>は、「故郷を遠く離れた場所にいる主人公が昔の恋人を思い出すという内容の詩で、これに日本風の楽曲と編曲が調和した名曲」と理解していました。

 ところで、『悲しき玩具』は啄木の死後(1912年)発行されたもので、病に侵されていく啄木の心の叫びを歌った歌が多く収録されています。自分の病気を歌った歌が実に多いのです。例えば「病院の窓によりつつ、いろいろの人の元気に歩くを眺む」「ふくれたる腹を撫でつつ、病院の寐台に、ひとり、かなしみてあり」
「病気の歌が多い」という事実は、私に<雪の音>に全く異なった解釈を与えることが可能であることに気付かせてくれました。それは、「胸痛み」というのは単なる精神的な痛みだけではなく、

「胸が痛いのは、病気で本当に痛いからなのではないか」という解釈です。

そうすると、<雪の音>は全く違った風に読めます。

(1)
胸痛み 眠られず
ふるさとは 遙か遠く

故郷を遠く離れているのは病気の療養に来ているから、と説明できます。

(2)
そらぞらし 街あかり
道ゆく人の話し声だけ
かすかに ひびいて
聞こえる 一人枕

の部分は、「そらぞらし」「一人枕」から、体が自由にならない自分の身の寂しさを歌っていると説明できます。

(3)
古い手帳の君の名前も
今では静かに見れる夜

は、病状の進んだ今だからこそ、「静かに見れる」と解釈できます。

(4)
ひとしきり ため息を
手にとりし 古本の
破れ表紙に黒いインクで
綴るは意味さえわからない言葉

意味の分からない言葉を書くことに集中することで、死という恐怖から逃れようとしていると解釈します。

(5)

いたむ胸 押さえつつ
寝返りを 打って見る
時計の音がやけに気になる
最終電車も今しがた
走り去った

この部分では、体の自由にならない自らと最終電車を対照させることで、寂しさを強調しています。

(6)

雪にこの頬うずめるような
激しく燃えるような恋なら
してみたい

最後のこの部分は、「激しく燃えるような恋ならもう一度してみたい、もう二度と出来ないけれど」という意味だと解釈します。

このように読むと、<雪の音>は、「実は病に侵された主人公が、死を目前にして、昔の恋人を思い出す歌である」と読みかえることが出来るのです。でも、ひょっとしたらこれまでもこのような読み方はされていたのかもしれません。そんな時はご一報ください。

この新解釈、いかがでしたでしょうか。皆さんのご意見ご感想をお聞かせ下さい。

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