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1 チンペイさんが手に取った歌集とは? | |||||||
<昴>の歌詞が啄木の影響のもとで生まれたことは既に述べました。啄木を使うとは、チンペイさんの教養の深さに驚かされますが、実は、他にも啄木の影響を受けた歌があります。そしてその歌は、チンペイさんがどの会社の啄木歌集を手に取ったかまでも推測させてくれるのです。
と歌っています。この部分の詩は、啄木『悲しき玩具』所収の
を組み合わせ、これに独自のストーリーをミックスしたものと考えられます。
の部分は、
を組み合わせて独自のストーリーをミックスしたものと考えられます。この部分については「全然違うじゃないか」とのご意見もおありでしょうが、2番で「寝返り」という言葉が出てくることから、「寝つつ読む……」の短歌を挙げることには根拠があると考えます。
3の「参照しやすいような編集」とはどんな編集か。私はいくつか啄木歌集を見たり買ったりしてみました。岩波や新潮文庫版などを見てみましたが、決定的なものは得られませんでした。ところが、ある歌集を手に取ったとき、「これだ!!」と思ったのです。それは、 です。この本を手にとって中をのぞいたとき、確信しました。 結論:チンペイさんが手に取った歌集は、白凰社刊『石川啄木詩歌集』である。 多少強引ですが(^-^;、このように考えると、啄木を読む楽しみも増します。最近はこの本を読みながら「これがチンペイさんの手に取った本なんだ」とか「実はチンペイさんは私達に啄木を読むことを勧めていたのではないだろうか」などと、しみじみとした感動を味わっている私です。 |
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2 <雪の音>の新解釈 | |||||||
啄木歌集を読み進めていくと、私自身の<雪の音>の解釈が変わっていくことに気付きました。以下では、私の<雪の音>の新解釈を述べたいと思います。 それは、「胸痛み 眠られず」とか「いたむ胸 押さえつつ 寝返りを 打って見る」の部分について、これまでの私は、「胸が痛いのは、心に傷を負っているから」と決めつけていました。そして、<雪の音>は、「故郷を遠く離れた場所にいる主人公が昔の恋人を思い出すという内容の詩で、これに日本風の楽曲と編曲が調和した名曲」と理解していました。 ところで、『悲しき玩具』は啄木の死後(1912年)発行されたもので、病に侵されていく啄木の心の叫びを歌った歌が多く収録されています。自分の病気を歌った歌が実に多いのです。例えば「病院の窓によりつつ、いろいろの人の元気に歩くを眺む」「ふくれたる腹を撫でつつ、病院の寐台に、ひとり、かなしみてあり」 そうすると、<雪の音>は全く違った風に読めます。 (1) 故郷を遠く離れているのは病気の療養に来ているから、と説明できます。 (2) の部分は、「そらぞらし」「一人枕」から、体が自由にならない自分の身の寂しさを歌っていると説明できます。 (3) は、病状の進んだ今だからこそ、「静かに見れる」と解釈できます。 (4) 意味の分からない言葉を書くことに集中することで、死という恐怖から逃れようとしていると解釈します。 (5) いたむ胸 押さえつつ この部分では、体の自由にならない自らと最終電車を対照させることで、寂しさを強調しています。 (6) 雪にこの頬うずめるような 最後のこの部分は、「激しく燃えるような恋ならもう一度してみたい、もう二度と出来ないけれど」という意味だと解釈します。 このように読むと、<雪の音>は、「実は病に侵された主人公が、死を目前にして、昔の恋人を思い出す歌である」と読みかえることが出来るのです。でも、ひょっとしたらこれまでもこのような読み方はされていたのかもしれません。そんな時はご一報ください。 |
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