谷村新司研究 『Jポップ』とシンジ

By 管理人


1 シンジは「Jポップ」に入らない
2 80年代前半におけるシンジ不振の理由
3 83年後半「22歳」ヒットによるシンジの復活から88年まで
4 88年「Jポップ」誕生のころのシンジについて
5 90年〜93年のシンジ
6 まとめ
付録1、2
 鳥賀陽弘道『Jポップとは何か』(岩波新書、以下「本書」)を読みました。Jポップという言葉がいつ生まれ、そしてそのジャンルがどのように発展し、衰退したのかを音楽産業の盛衰を描くことで浮き彫りにしています。音楽の内容より付加価値に重点を置き過ぎた音楽業界に警鐘を鳴らしたり、なかなかの力作なのですが、内容をまとめるのが今回の趣旨ではありません。私は、当然のことながら、シンジという視座からこの本を読んでみました。すると、いくつか面白いことが分かってきました。それは、シンジのアルバムリリースと音楽産業との盛衰に何らかの関係を見いだせるからです。さっそくまとめていきましょう。


1 シンジは「Jポップ」に入らない
「Jポップ」という言葉は1988年、J-WAVEで邦楽をオンエアしようとしたスタッフが考え出したのだそうだです。それは、欧米のポップスやアメリカ発のワールドミュージックと並べて聞いても違和感のない音楽と漠然と考えられていたのだそうです。そしてその「Jポップ」という枠組みにどのミュージシャンを分類するのかが議論されたそうです。そこに興味深い記述を見つけました。

「まず、演歌やアイドルはダメ。サザンオールスターズ、松任谷由実、山下達郎、大瀧詠一や杉真理はいい。が、アリスやチャゲ&飛鳥、長渕剛はちがうだろう、というふうに感覚的に決めていった」(8p)

これは、「洋楽と肩を並べることができる、センスのいい邦楽」「洋楽の何に影響を受けたかはっきりわかる邦楽」という方針で決めたとのことでした。たしかに、この基準からすれば「さのさ」に影響を受けているシンジの音楽はJポップに入らないということになるでしょう。ただし、もちろん、「洋楽に肩を並べることができる」という点には異論ありです。その辺の欧米のミュージシャンよりもはるかに知名度の高い曲を作ってますからね。


2 80年代前半におけるシンジ不振の理由
 本書によれば、レコード業界は、1960年代、70年代とその市場を拡大し続けていたが、70年代後半にぴたりと止まり、82年にはついに減産に追い込まれました。これを「オーディオ不況」といいます(30p)。オーディオ不況の際の、シンジのリリースアルバムを見てみましょう。

1979.4.20 喝采
1980.4.20 昴
1981.5.5 海を渡る蝶
1982.6.5 JADE─翡翠─
1982.10.6 谷村新司・さだまさしスペシャルライヴ
1982.12.20 父と子
1983.5.25 EMBLEM

 81、82年のアルバム、特に82〜83年、見事に売れておりません。この不況とピタリと重なってくるのです。つまり、このころのシンジが傑作を残しながらも売り上げにつながらなかったのは、このような不況と関連なしとはいえないのではないでしょうか。


3 83年後半「22歳」ヒットによるシンジの復活から88年まで
 ところが、82年10月にCDが発売されることで市場は一気に息を吹き返し、87年にはLPの過去最高出荷額を抜き去ってしまいました。86年から87年にかけてLPからCDへの流れが出来上がったのでした。

 このころのシンジのアルバムを見てみますと、

1984.1.21 抱擁
1984.6.21 ALONE TOGETHER(シングルコレクション)
1984.10.5 棘
1984.12.21 谷村新司ゴールデンベスト(東芝EMI)
1985.7.1 人間交差点
1985.3.30 谷村新司CDベスト(東芝EMI)
1985.11.25 伽羅
1986.6.25 素描
1986.12.11 OLD TIME
1987.6.1 ザ・ベスト
1987.10.25 今のままでいい

 オリジナル年2作というハイペースでリリースを続けています。市場の急激な変化を敏感に感じ取っていたかのようです。アルバムは堅調に売り上げを維持し、シングルでも「愛の誓い」「クラシック」とスマッシュヒットを連発します。


4 88年「Jポップ」誕生のころのシンジについて
 88年にJポップという語が生まれました。そして、CDが完全に音楽鑑賞の主役となりました。このころのシンジのリリースを見てみますと、

1987.12.1 オリジナルカラオケCDベスト
1988.1.25 ニューベストナウ70(東芝EMI)
1988.9.18 獅子と薔薇
1989.2.1 BEST OF BEST
1989.8.2 ビッグアーティストベストコレクション(東芝EMI)
1989.10.5 輪舞
1989.11.25 オリジナル・カラオケ・ベスト

 CD時代の到来とともに、ベスト盤のリリースが飛躍的に増大します。そして、ここで注目すべきなのは「カラオケベスト」の発売です。カラオケの流行に乗った形のリリースが続くわけです。
 ところで、この時期について本書は、CD時代の到来とともに、「女性」「十代」がCD購買層に加わり、成人男性の顧客としての比重が相対的に低下したと述べています(44p)。そして90年代に入って、若者、女性の支持を受けない曲がヒットチャートから消えてしまったというのです。
 この時期のシンジは、そういう時代の流れを察知したりしようとはせず、ひたすらヨーロッパ三部作に専念していたかのように見えます。


5 90年〜93年のシンジ
 90年代に入ってからのシンジのリリースを見てみます。

1990.9.8 PRICE OF LOVE
199012.1 ワン・アンド・オンリー(ベスト)
1991.10.1 君を忘れない
1991.10.25 谷村新司大全集(6枚組ベスト、20周年記念盤)
1991.11.25 ベスト・リクエスト
1991.11.25 オリジナルカラオケ・ベスト・リクエスト
1992.3.25 コラソンスペシャル
1992.9.2 三都物語
1992.11.11 best collection(東芝EMI)
1992.12.6  サライ
1993.4.16 バサラ
1993.10.25 THE MAN 谷村新司ベストセレクション
1993.12.1 オリジナル・カラオケベストセレクション

 「十代」「女性」がキーワードになった時期に、あえてシンジがスタンダードものをぶつけてきているのがわかります。「三都物語」「サライ」「階」です。ヒットチャートのサイクルが短くなってきていることを察知して、息の長い曲を作ろうとしたのかもしれません。もちろん、ベスト盤、カラオケベストが激増しているところも見逃せません。80年代後半のカラオケベストが好評だったのでしょう。背景として89年頃カラオケボックスが普及、93年に通信カラオケが普及したという事実があるのも忘れてはならないでしょう。
 私見によれば、この時期は、シンジにとってかなり重要な時期だったように思えます。ヒット曲のサイクルが短くなってきているのを見て、楽曲重視のスタイルを確立させた時期だと考えるからです。


6 まとめ
 以上本書をシンジという視座から読んできました。結果として、シンジが時代状況をよく見て楽曲を作っているということがよく分かったように思えました。様々な評価があるでしょうが、流行に乗ったり乗らなかったり、変幻自在に活動しているのが分かります。
 95年の移籍以降については、別稿を用意するつもりです(いつになるかわかりませんが)。


【付録】
付録1 アリスはCMタイアップのはしりだった

 本書からは、上のことのほかに分かることがありました。それがこれ、「アリスはCMタイアップのはしりだった」です。1978年、テレビとポピュラー音楽の関係を一変させる重要な出来事があったといいます。そのうちのひとつがCMタイアップソングの大ヒットです。「アリスのメンバーの堀内孝雄が『君のひとみは10000ボルト』が、四か月で九十万枚を売る異例の大ヒットになった。これは、曲名も資生堂のキャンペーンタイトルそのまま」(69p)。
その後、南こうせつ「夢一夜」、矢沢永吉「時間よ止まれ」、山口百恵「いい日旅立ち」と続きました。テレビに出ないと思われていた堀内、矢沢がCMソングを歌ったことに視聴者が驚いたのだそうです。現在では当たり前になったタイアップ、そのはしりがアリスにあるとは! なお、このころのタイアップ関係についての次の記述も引用しておきましょう。

「キャンペーンのテーマやキャッチコピーが先にあって、それに合わせて曲を作ってもらうというやり方でしたから。イニシアチブは広告サイドが完全に握っていました」
「その頃はタイアップというより「コラボレーション」「共作」という関係だったと思います。物理的な意味より、クリエイティブなタイアップでした。昨今当たり前のタイアップとは質がちがった気がします」
「コピーライターの彼らが詞を書いたわけじゃないけど、コピー言葉に触発されて生まれた歌とは言えると思います。そういう意味でも共作だった」(72p)

付録2 アリスはミュージシャンのテレビ出演のはしりだった
 もう一つ分かったのが「アリスはミュージシャンのテレビ出演のはしりだった」です。1978年、テレビとポピュラー音楽の関係を一変させる重要な出来事がありました。そのうちのひとつがCMタイアップソングの大ヒットでしたが、もうひとつが「ザ・ベストテン」の登場です。厳正なランキングを旨とするこの番組が、テレビとシンガーソングライターとの関係を変化させていったといいます。そこでの例としてアリスがあげられています。

「『アリス』もテレビ出演拒否を宣言していたグループのひとつだった。弟子丸(ベストテンのプロデューサー)はコンサート地の広島まで彼らを訪ね、楽屋にいた谷村新司と堀内孝雄に向かって『順位は絶対に校正です』『コンサートに行けない視聴者にアリスを見てもらいたい』『どうしてもテレビの歌番組を変えたい』と説得した。熱意にほだされたのか、二人は『ええやんか。やろう』と出演を受け入れ、『冬の稲妻』『チャンピオン』を歌う。ちなみに堀内孝雄がCMタイアップヒット『君の瞳は10000ボルト』を歌うのも、同じ七八年である」(83p)。

その後、松山千春もテレビ出演を受け入れたといいます。アリスがミュージシャンのテレビ出演のあり方をかえたことを示すエピソードでした。ちなみに、当時最後までテレビに出なかったのは、矢沢、オフコース、南こうせつらだったのですが、矢沢はCMにまで出演、南は今ではテレビに出てきます。オフコースは解散。矢沢も南もテレビに出演しているのです。アリスがその道を切り開いたといっては言い過ぎでしょうか。

付録1も付録2も、コアなファンには分かりきったことなのかもしれません。でも私、知りませんでした。びっくりしてここに記する次第です(05.4.30)


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